来てしまった。
 目の前に聳える高級マンションを見上げながら、ポケットの中の鍵を指先で確かめる。
 教えられた住所を頼りに、辿り着いたのがここだった。
 人気バンドのギタリストで、私の運命の相手でもあるJは、このマンションの最上階に住んでいる。
 部屋の主は今、仕事中でここにはいない。
 毎日メールで知らされる彼のスケジュールは、全て頭に入れてあった。
 帰宅予定は深夜で、あと四・五時間経たなければ戻ってこないだろうことも理解している。
 それでもここに来てしまった。
 会いたい。
 ただそれだけの理由で、Jに連絡もしないままここまで来てしまったのだ。
 Jとは、大学の文化祭で出会ったあの日以来、一度も会っていない。
 大学生の私と違って、Jは毎日多忙なのだ。
 仕事の合間にメールでスケジュールを教えてくれるJに、自分から電話を掛ける勇気はなくて、メールでしか返事をすることが出来なかった。
 テレビに映るJの姿に、元気そうだと安心しながらも、寂しさを覚えてしまう。
 熱く甘い夜の想い出は、Jの腕の代わりのように私を捕らえたまま少しも褪せてはくれなくて、会いたい気持ちを募らせた。
 会える日をただ待つことに耐えられなくなったから、ここまで来たのだ。
 一目で良いから直接会って、声を聞きたい。
 意を決してエントランスに足を踏み入れる。
 セキュリティーボックスに鍵を差し込んで、教えられたパスワードを入力すれば、専用のエレベーターへと通じる扉が開いた。
 このエレベーターも同じようにしなければ作動しない。
「私のマンションを高級だなんて言っておきながら、自分の方がよほど凄い所に住んでいるじゃないか……」
 いくら素性を隠しているとはいえ、Jは有名人なのだと改めて実感する。
 しかも私とは違って、自分の実力でこのマンションに住んでいるのだ。
 凄い男だと素直に思える。
 そんな男が本当に私のものなのかと、不安にもなるけれど。
 エレベーターを降り、Jの部屋の扉の前に立ったときに、その不安は大きくなる。
 ここまで入って来ておいて今更だとは思うものの、主のいない部屋に勝手に入ることは躊躇われた。
 ずうずうしい奴だと思われたらどうしようなんて、らしくもないことまで考えてしまう。
 もともと私たちの関係は、運命などという不確かなものの上に成り立っているのだ。
 おまけに、その存在を確かめる術すら見つけられないような者たちの、ゲームの駒にされているのである。
 唯一の証は、お互いの体にある羽根型の痣だけで。
 私たちに出来るのは、幸せになるための道を探して足掻くことのみ。
 それすら何者かの采配かもしれないのだが。
 こんな風に会いたくて堪らないのは、私だけかもしれない。
 Jも同じだと思いたいのに、不安だけが増していく。
 早く帰ってきて……。
 そっと扉に触れてみる。
 この扉の向こうで、少しは私を想ってくれたりしただろうか。
 私は一秒だってJのことを考えない時間はなかった。
 Jに出会ってから私の中にいたアイツは、ぱったりと現れなくなって、だから余計にJのことだけでいっぱいになってしまったのかもしれない。
 精神的に不安定になっているような自覚はあった。
 Jを想ってドキドキしたり、不意に泣きたくなったり。
 舞い上がっているとか、浮かれているとか、そんな華やいだ雰囲気ではない。
 溺れている。
 そんな言葉が一番近い。
 自分の気持ちすら制御できなくて、次の一歩をどこに踏み出そうとしているのかさえあやふやなのだ。
 Jのことを少しでも多く知りたいから、バンドのCDとライブビデオは全て手に入れたし、妹のリサにも頼んで解る範囲のことは調べ上げた。
 それなのに、知れば知るほどJが遠い存在に思えてくる。
 ここまで来てしまったのは、私がJの特別なのだと確認したかったからかもしれない。
 羽根型の痣がある限り、私とJは運命を共有しているのだと。
 時計の針は、遅々として進まない。
 扉に背を預けて、冷たい床に座り込む。
 こんな私をJは笑うだろうか。
 会いたかったと、抱きしめてくれたら嬉しいけれど……。





「ハイネル。おい、大丈夫か?」
「え……?」
「なんかうなされてたぞ。嫌な夢でも見たのか?」
 心配そうな顔をして、Jが私を覗き込んでいた。
「うなされてた?嫌な夢じゃなかったんだけど」
「そうか?なら良いけど、おまえ、苦しそうだったから」
 本当に違うのだと微笑んでみせれば、太い腕に抱き締められる。
「初めてここに来た時のこと、思い出してたんだ」
 そう告げれば、Jが懐かしそうに目を細める。
「あの時は俺も驚いたんだぜ?いるはずのないおまえが、扉の前で蹲ってるし。俺は幻なんじゃないかと思って、暫く声が掛けられなかったんだよなぁ」
 思い出しているのだろう、遠くを見るようにしてJが語る。
「おまえが俺を見たときなんかもう、俺は感動して天にも昇る心地がしたもんだぜ」
「そ、そうだったのか?」
 そんな大げさなと言いかけて、自分も似たようなものだったなと思い返す。
「そうだぜ。だけどおまえはめちゃくちゃ冷たくなってて、風邪でも引かせたらって焦ったんだよな」
「すぐに暖めてくれたじゃないか」
「まあなぁ。けど、あれはなぁ……」
「なんだ?」
 いつになく歯切れの悪いJを促せば、照れたように鼻の頭を掻いた。
「おまえが可愛くて我慢できなかったってのが、本当のとこなんだよな。情けないけど」
「私を可愛いなんて思うのは、Jだけだ」
「そんな訳ないだろう。こんなに可愛いのに」
 言葉とともに、ぐりぐりと頬を押し付けられる。
「俺はいつも心配で、ここにずっと閉じ込めて外に出したくないくらいなんだぜ!」
 大学でナンパされたりしてるんじゃないかなんて、取り越し苦労もいいところだ。
「あいにく私は堅物で有名だからな。むしろJの方が心配だ」
「俺がおまえ以外を見る訳ないだろう」
 Jが眼中になくても、言い寄ってくる女はたくさんいるだろうと言えば、ニヤリと口端を引き上げる。
「そうでもないぞ?バンドのときは事務所のガードが固いから、誰も俺たちに近寄れないしな」
 妬いているのかなんて、そんなに嬉しそうな顔をしなくてもいいのに。
 そのまま顔が近づいて、唇が触れる。
 触れるだけだと思っていたそれが、徐々に深いキスへと変わっていくのに驚いて、Jの背中を叩いた。
「もう駄目だ。おまえが可愛くて止められない」
「ちょっと、Jってばっ。昨日散々したじゃないかっ」
「全然足りない」
 おまえが可愛いのがいけないんだろうなんて、平然と言い放たれてしまっては、抵抗する気力も萎える。
 今夜からはまた、暫く会えそうにないのだ。Jの心情も解らなくはない。
 こんな明るい日差しの中でコトに及ぶのには、かなり抵抗を感じるけれど、それも初めてというわけではないし。
 私だってJを刻み込んでおきたかった。
 会えない時間をやり過ごすために。
「J……」
 名前を呼んで、唇を開く。
 舌を覗かせてJを誘えば、苦しそうに眉間に皴を寄せて、噛み付くようなキスを仕掛けてきた。
 口腔を探る舌に、背筋がゾクリと粟立つ。
 絡み付いては離れていくそれを追いかければ、緩く歯を立てられた。
「ァフッ……」
 Jの大きな掌が、肌の上を滑っていく。
 ただ撫でているだけのようなのに、微妙に強弱をつけて、確実に私の好いところを探り出す。
「ハッ……ん……」
 もどかしい刺激に、身をくねらせた。
 広い背中に爪を立てれば、Jの体がビクリと震える。
「あんまり煽るな。優しくしてやれなくなるぞ?」
 甘く掠れた声で告げられて、それすらも愛撫としか感じられない。
「…いい……か、ら……」
 もっと強引に攫って欲しい。
 体がJを求めている。
 獣のようだと思わない訳じゃないけれど、これが一番Jを感じられるから。
 体の熱さだけじゃなくて、私に対する想いも伝わってくるから。
「も……来て……」
「ばっか、そんなことしたら傷つくだろうが。もうちょっとイイ子にしてろ」
 長い指が体内を探っている。硬い男の指だ。
「あっあっ……んぅっ」
「ココ、好いんだろう」
 弱いところをぐりぐりと弄られて、息を呑む。
 知らず涙腺も緩んでいたらしい、涙が頬を伝って落ちた。
「おまえ可愛すぎ。もう限界」
「ヒッ……アァッ……」
 指で広げられたところに、Jの昂ぶりが侵入してくる。
 焼け付きそうなくらい熱くて、無意識に逃れようとしたのだろう、腰を掴まれて引き戻され、最奥まで穿たれた。
 昨夜存分に慣らされた体は、Jを咥え込むコツをすぐに思い出したようだ。
 切ないような掠れた声で、Jが呻く。
「……呑み込まれそうだ」
 緩く律動を繰り返しながら、Jは苦悶に耐えるような表情を浮かべた。
 男の色気が滴るようなその顔に、ぞくぞくする。
「大丈夫そうだな。もっと動くぜ?」
 唇が頬に触れた。
 脚を抱えられて、腰が浮き上がるほどに激しく突き上げられる。
「ゥアアッ……」
 息が上がる。
 Jの起こす波に揺さぶられて、喘いだ。
 高みへと連れて行かれては落とされる。この浮遊感が堪らない。
 腕の中の逞しい体をきつく抱いた。
 今だけは、ひとつに解け合えるから。
「…J……ッ」
 名前を呼べば、微かに笑みを浮かべる。
 極限まで追い詰められた体が、開放を求めて悲鳴を上げた。
「ハッ…クゥッ……ン……」
 最奥に注ぎ込まれる情熱を感じながら、ゆっくりと体が弛緩していく。
 飛び散る汗の粒が、陽光にキラキラと光る映像を最後に、目を閉じた。





 自宅のマンションで、テレビを見ている。
 勿論Jが出ているからなのだが、さっきからJがアップになる度にドキドキしていた。
 どんなに化粧をして素顔が解らなくなっていても、瞳までは変わらない。
 その鋭い視線に貫かれて、鼓動が早くなる。
「解っててやってるだろう……」
 絶対に計算づくでやっているJの視線の本当の意味を理解しているのは、私だけだとしても、これではさらにJのファンが増えてしまう。
 あんまりJを映さないで欲しいのに、リーダーとJばかりが画面を占めていた。
 内側で燻る疼きをやり過ごそうとしても、Jの瞳を見ているだけで、体が火照ってくる。
 会えないのが解っているのに、こんな目で見つめるなんて反則だ。
 仕掛けられた罠に、自ら嵌りに行くようで悔しいけれど。
「真夜中に押しかけてやるから覚悟しておけ!」
 画面の中のJに向かって、宣言してみた。

 






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